世界初そして人類で最初の核実験

1945年8月6日に広島へ原爆が投下され8月9日に長崎へ投下されました。原爆が投下される前の7月16日に世界で初めてとなる核実験が行われました。その時にはすでにナチスドイツが5月7日降伏していたため、原爆を投下する意味があるのか?!という気もしますが、原爆の持つ破壊力を特に知っているからこそ、そしてマンハッタン計画に科学者として開発に参加したからこそ、まだ人類が気づいていない破壊力を持つため、適切な管理をすることの重要性を説いているレポートがまとめられました。

人類初の核実験

地球でそして人類史上初めての核実験が行われたのは、1945年7月16日です。核実験が行われた場所はアメリカのニューメキシコ州ソコロの南東48kmの地点です。この実験が行われたのは、後に長崎に投下されるの核原爆と同じ方の爆縮型プルトニウム原子爆弾です。「トリニティ実験」と呼ばれるこの人類最初の核実験で「核の時代」が幕を開けました。どうしてニューメキシコ州ソコロで実験が行われたのか?!というと、6月11日にシカゴ大学に設けられた7人の科学者による委員会によって、合衆国政府に設けられた原子爆弾を含めた核エネルギーに関連する事項を検討して勧告するための暫定委員会に報告書を提出され、その報告書の中で無人の地域で実験を行うべきだという提案がされたからです。

この7人の科学者が提出した報告書は「フランクレポート」と呼ばれるものですが、この報告書が提出されたことでアメリカ政府が原爆を投下することを防ぐことはできませんでしたが、その後戦後の科学者たちによる核軍備競争という大きな世界的な動きの中で、科学者たちが研究や開発だけではなく社会的活動や政治的な提言を行う活動のきっかけとなったといえるでしょう。

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フランクレポート

7人の科学者たちによる委員会が提言しましたが、その委員会の委員長がユダヤ系の物理学者でナチス政権に反対してドイツからアメリカへ亡命した物理学者のジェイムス・フランク博士でした。ジェイムス・フランク博士はドイツでナチス・ドイツが政権を握ったことで、大学の職を追われてアメリカへ亡命していました。

もちろんジェイムス・フランク博士も、マンハッタン計画に協力していていた科学者ですが、ジェイムス・フランク博士と同じようにマンハッタン計画に協力していたロシア生まれのユダヤ系化学生物学者のユージン・ラビノウイッチ博士や、ルーズベルトへ原子爆弾開発のきっかけをつくるアインシュタインの署名入りの手紙を出したレオ・シラード博士なども委員会のメンバーからなる委員会でした。その委員会の委員長となったジェイムス・フランクの名前から「フランク・レポート」と呼ばれています。

概略

フランク・レポートを実質的にまとめたのは、ユージン・ラビノウィッチです。ユージン・ラビノウィッチは、ジェイムス・フランク委員長のメモ書きの要点と、レオ・シラードの忠告を元にして、科学に限定されない幅広い知識をもっていて、文才にも恵まれていたためユージン・ラビノウィッチによって洗練された文章と論理を併せ持つレポートに書き上げられました。

このレポートには、5000語弱と、5つの節で成り立っています。報告書のいちばん最初には、マンハッタン計画に参加した科学者という自分たちが特殊な立場にいることで「まだ気づいていない残りの人類が、深刻な危機を知った少数の市民の立場にある」としており、まずここで提案を促すことが、他の人たちへの自らの責任であるとしています。

そしてこのレポートでは、科学的知見に基づいてこの時に起きている戦争の後に、訪れるであろう世界予測がされています。そこでは、基礎的科学知識が共有されること。そしてウランも独占はできないことから、たとえどんなに高い機密性を保持したとしても、アメリカの優位が「数年以上に渡り、自分たちを守り続けることができると望むのは、ばかげたこと。」としています。

アメリカだけが核兵器を独占する状態は、決して長くは続かないとしています。そして核兵器には、核戦争を行うことの禁止協定のような国家同士の国際的合意を行うことだけが、戦後の核開発競争と核戦争の危険を防止できるとしています。核兵器の使用や核兵器開発の国際的合意を集結するためには、まず世界に向けて最初に核兵器を明らかにする手段が、運命的な重要性を帯びるとしているとしています。

そのため、日本に対して原爆を使用する際には、予告もなしで核原爆使用をすると他国から信頼を失うことになるとしていて、国際的な核兵器を管理する枠組みの合意を形成することが難しくなってしまう。とも述べています。

そして、核兵器の実験を行う際には無人地域でデモンストレーション実験を行うこと。そして核爆弾を使用するのではなく、使用しないことで少しでも長く核爆弾を秘匿しておくことで、核兵器の国際的な管理体制を作り上げるようにも訴えています。

暫定委員会の決定

暫定委員会はアメリカ政府に設けられた、原子爆弾を含めた核エネルギーに関する事項を検討するために設置されましたが、まとめたレポートを渡すために報告書を携えてジェイムス・フランクはワシントンD.C.行きの列車に乗り、暫定委員会の委員長になっているスティムソン長官のオフィスへ直接届けました。

この時にジェイムス・フランクは知りませんでしたが、既に暫定委員会では5月31日に原爆の使用方法の問題点などを検討済みで、既に結論も出ていました。それは核爆弾を日本の都市に無警告の状態で使用するという決定がでていました。

そのためフランク・レポートをまとめた委員会の科学者たちには、レポートを提出した後になんの返答もなかったことから、とても強い無力感だけを残すことになりました。7月になってもずっと暫定委員会からの返答を待っていましたが、暫定委員会から返答がなかったためレオ・シラードは原爆の直接使用することに反対するための活動を続け、ルーズベルト大統領あてに出すための嘆願書の署名活動などをおこなっていました。

結局6月11日付けのレポートから約2ヶ月後の8月6日に広島に原爆が投下され、8月9日に長崎に原爆が投下されました。

原爆について

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1945年

  • 4月12日・・・アメリカ合衆国第32代大統領のフランクリン・ルーズベルトが昼食の前に、脳卒中のため死去。副大統領のハリー・S・トルーマンが大統領に昇格します。
  • 5月7日・・・4月30日にアドルフ・ヒトラーは自殺をして、ナチスドイツは降伏しました。これでヨーロッパでの第二次世界大戦が終了しました。
  • 5月10,11日・・・ロスアラモスで原爆目標策定委員会の2回目の会議がおこなれました。この会議では、原爆を投下する目標にする日本の都市がリストアップされました。
  • 6月11日・・・ジェイムス・フランクが代表の科学者による報告書が、暫定委員会に報告書(フランク・レポート)を提出します。
  • 7月16日・・・世界初の核実験となる「トリニティ実験」がアラモゴードで実施されました。この実験では爆縮方式のプルトニウム原爆の実験が行われました。
  • 7月24日・・・アメリカ大統領のトルーマン大統領が、ソ連のスターリン書記長に原爆開発を明かします。この時にスターリンは無関心の様子だったので、トルーマン大統領はちょっとショックを受けますが、実際はスターリンは諜報員を通じて詳しく知っていました。
  • 7月25日・・・広島、小倉、新潟、長崎のいずれかの年に8月3日以降に原爆を投下するように、アメリカ空軍参謀総長のカール・スパーツ大将が命令を下します。
  • 8月6日・・・ 広島へ原爆投下。投下されたのは「リトルボーイ」と名付けられたガンバレル型ウラン235原爆です。
  • 8月9日・・・長崎へ原爆投下。投下されたのは「ファットマン」と名付けられた爆縮方式プルトニウム239原爆です。
  • 8月12日・・・スミスリポートが発行されて、初めて原爆開発の技術史が説明されました。
  • 8月15日・・・日本が無条件で降伏となり、この日で第二次世界大戦が終結しました。
  • 10月16日・・・ロスアラモスの所長を務めるオッペンハイマーが所長を辞任しました。

核のおそろしさ

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