核兵器の開発の始まり「マンハッタン計画」

日本は広島と長崎に原爆が投下されました。核兵器の破壊力を核兵器を開発していた人たちはどのような目で見たのでしょうか。核兵器の破壊力を知っていながらも、今も核兵器の開発は続いています。そしてチェルノブイリや福島原子力発電所の事故などで核による被害を知っていてもです。

原子爆弾といわれる核分裂を利用した兵器が開発されたのは、第二次世界大戦中のことです。アメリカ・イギリス・カナダが「マンハッタン計画」として、科学者や技術者たちを総動員した計画で原子爆弾は開発され製造されました。

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マンハッタン計画

亡命ユダヤ人物理学者のレオ・シラードが、ナチス・ドイツが咲きに核兵器を保有することを危惧したことから、同じく亡命ユダヤ人の20世紀の天才とも言われるアインシュタイン博士の署名を借りて、1963年にルーズベルト大統領に信書を送ったことから始まります。そしてその手紙は、アメリカ政府の核開発への動きを促す最初の手紙となりました。この「進言」で述べらていたのは、核連鎖反応が軍事目的のために使用される可能性があること、そして核によって被害を受ける可能性も示唆されていました。アインシュタイン博士がマンハッタン計画に関与したかという点では、これから先は関与していません。そしてアメリカ政府からもアインシュタイン博士の政治姿勢を警戒されたために、実際にマンハッタン計画が開始した事実さえも知らされていませんでした。

ルーズベルト大統領は、リーマン・ブリッグズ国立標準局長官に「S-1ウラン諮問委員会」を設けるように命じます。そしてシラード博士が提案した問題を検討することに入ります。ブリッグズ国立標準局長官は1939年10月21日に信書を送ってきたシラード博士、ウィグナーとユダヤ人理論物理学者で、シラード博士と同じくハンガリーからアメリカへ亡命したエドワード・テラー博士と初めての会合を開きました。エドワード・テラー博士は、後に水爆の父として知られる人物です。11月1日に、諮問委員会は大統領宛の報告書を作成します。そして潜水艦の動力源として核分裂反応の調査を開始することを報告しました。「もしその(つまりウラン)反応が、爆発性のものでれば既に知られているどんなものと比べても、それは(ウラン)はるかに大きな破壊力をもつ爆弾になるだろう」と報告書にと付け加えられました。

ブリッグズ国立標準局長官は合衆国防衛研究委員会(NDRC) に対して、当時発見されたばかりのプルトニウムの研究とそしてウランの研究のために、16万7000ドルの支出を要求しましたが、ルーズベルト大統領はまあり関心当初あまり関心をしめさなかったため、「S-1ウラン諮問委員会」は中断しています。

1939年

8月2日・・・ハンガリー生まれでユダヤ系レオ・シラード博士が、アインシュタインの署名を得た手紙を第32代アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトに送ります。ナチスドイツが既に核兵器の研究を進めていた場合に備えて核分裂を利用した兵器の実現可能性についての研究に資金を提供するようにと助言しました。(アインシュタインは後にこの手紙に署名したことを後悔しています)

9月1日・・・ ナチスドイツがポーランドを侵攻して、第二次世界大戦が勃発します。

10月11日・・・ルーズベルト大統領と近しい経済学者アレクサンダー・ザックスが、ルーズベルト大統領に面会をします。そしてアインシュタインの署名したシラード信書を渡します。ルーズベルト大統領はウラン諮問委員会の設立を承認しました。

10月21日・・・ウラン諮問委員会の最初の会合が開かれました。議長には国立標準局長官のリーマン・ブリッグスが付きます。そして中性子の実験のために予算6000ドルが付けられました。

同時期のイギリス

時を同じくした1939年の6月のことです。イギリスでは一歩抜きん出た発見が成し遂げられました。それはバーミンガム大学のユダヤ系物理学学者オットー・フリッシュと、ルドルフ・パイエルスがウラン235臨海室料に関しての発見です。このふたりの計算では、ウラン235を爆発させるには数kg~10kgあればそれで十分だと見積もられました。

オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスは、ふたつの報告書を書きます。それは、ドイツが核兵器を開発しようとしていることに対する警告と、後にガンバレル方式と呼ばれる単純な兵器の機構です。バーミンガム大学物理学科主任のマーク・オリファントを通じて、そのふたつの報告書はイギリス防空科学調査委員会議長、オクスフォード大学のヘンリー・トマス・ティザードへ送られました。このことがきっかけとなり、1940年5月には、「MAUD委員会」モード委員会と呼ばれるウラン爆弾つまり原子爆弾の実現可能性を評価する科学者からなる委員会が組織されました。そして「MAUD委員会」によって起草された調査報告書がアメリカ政府に1941年10月に伝えられます。この調査報告書によって、アメリカ人物理学者が認識していなかったウラン爆弾の実現可能性が示されることになり、原爆開発計画を開始するための直接的な開始要因となりました。

原爆について

1940年

3月・・・オーストリア人でユダヤ系物理学者オットー・フリッシュと、ドイツ生まれでユダヤ人物理学者のルドルフ・パイエルスが「フリッシュ=パイエルスの覚書」としてまとめ発表します。原子爆弾を動作させるために、必要な濃縮ウランは少なくとも1ポンド (だいたい0.45kg)が必要だいう計算がなされました。覚書では、原爆の爆発から、その後の放射性降下物までを予測しているものです。

4月10日・・・ イギリスでヘンリー・ティザードによって「MAUD委員会」が設立されました。MAUDの頭文字に意味はなく、偽装のために選ばれた頭文字です。

7月1日・・・ アメリカ国防研究委員会 (NDRC) 議長のヴァネヴァー・ブッシュが核分裂研究の責任者となりました。

12月 ・・・ ドイツ系イギリス人物理化学者のフランシス・サイモンが、ガス拡散法によってウラン235の濃縮法の可能性についてをMAUD委員会に報告します。そして費用の見積もりと技術的な仕様が決定されました。中性子の発見で1935年にノーベル物理学賞を受賞しているイギリス人物理学者のジェームズ・チャドウィック博士は「もはや原爆は、避けられない・・」と認識します。ジェームズ・チャドウィック博士もマンハッタン計画に参加します。

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