核開発のきっかけ

「マンハッタン計画」がアメリカ陸軍工兵司令部で始まったのは1942年です。核分裂が発見されたのは、1939年1月です。発見したのはドイツの化学者物理学者1944年にノーベル化学賞を受賞することになるオットー・ハーンとユダヤ系物理学者のリーゼ・マイトナー、オーストリア人でユダヤ系物理学者オットー・フリッシュです。ウランの核分裂で連鎖反応の可能性が明らかになっても、ウランの同位体ウラン235の濃縮が技術的に実現することができなければ、原子爆弾は事実上不可能だと考えられていました。

ところが、オットー・フィリッシュとルドルフ・バイエルスから、ウラン235単独で絶大な破壊力を持つ小型の爆弾が可能になること、そして分離するために必要な量は少しでもできるという見積もりが出たことで、原発の真剣な検討が一気に加速していきます。ナチス・ドイツはオットー・ハーンな圧力をかけて、囲い込みオットー・ハーンと一緒に研究をしていたリーゼ・マイトナーはユダヤ系ということもあり、命の保証も危うくなったためスウェーデンに亡命せざるを得ない状況になります。

その当時のアメリカはイギリスほどに原発開発に慎重な見方でした。それはアメリカが戦争に参加していなかったからです。化学者によって1940年4月に組織されたMAUD委員会からの報告がアメリカに伝えられて、委員会のメンバーでもある後に水素の核融合を発見する物理学者のマーク・オリファントがアメリカに強く開発を進めたことが大きなきっかけとなり、本格的に原爆開発へと踏み出すことになりました。

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ウラン235分離は難しい

オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスは、共にユダヤ人でナチスから逃れるためにイギリスに亡命していました。多くの物理学者たちは、有効な連鎖反応を起こすためはウラン235を、化学的性質が同じで質量がわずかに異なるだけのウラン238から大量に分離させなければならないため、分離させることは技術的にほとんど不可能なことだと考えていました。そして物理学者の中でも指導的な立場にいたニールス・ボーア博士(1922年ノーベル物理学賞受賞)も、その困難さについて「合衆国をひとつの巨大な工場にでも変えない限り、分離することなどできるわけがない」とまで語っていたとされているほど、かなり難しいことだ思われていました。

ところがオットー・フリッシュは前向きな性格なのか、楽天的な性格なのか、ウラン235の分離について楽観的な見方をしてました。そして1940年2月にオットー・フリッシュは、もしも仮に分離ができたとして放出される高速中性子で、ウラン235が直接連鎖反応を起こすとした場合の臨界質量を、ルドルフ・パイエルスと一緒に考察します。

ウラン235がほとんど分離されていないので、その分裂の起こりやすさを示す分裂断面積は直接的には不明でしたが、天然ウランのそれから一桁大きいと推測できました。そしてその値は、ルドルフ・パイエルスの臨界質量の公式によると、わずか600グラムに相当するものでした。そして反応は十分な高速になるため、強力な爆発を起こすと考えられました。おまけに、この程度の量の分離であれば、十分な資金をかければ技術的に十分可能な量だと見積もられたのです。

覚書が提出される

計算を導き出したオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスは、自分達が導き出した数字に動揺します。そしてこのことを2つの短い覚書を書き、上司に提出しました。

第1の覚書では、技術的な計算を示します。5キログラムのウラン235でも、数キロトンのダイナマイトに相当するとしただけではなく、強力な放射線を放出するため「爆発した後も長時間もの間、生命にとって致死的なものになるだろう」としています。

第2の覚書では、この爆弾がもたらす意味について触れています。この爆弾は「実質的に防御することは不可能」なことで、爆弾がもたらす被害から「この国が使用する兵器として、相応しくない」としながらも、もしドイツがこの兵器を保有しているなら「最も有効な対応となるには、同じ様な爆弾によって反撃の威嚇を行うことではないだろうか」としています。

実際のところオットー・フリッシュとルドルフ・バイエルスの見積もりは甘かったことが後に分かりますが、見積もりが甘かったからこそ小さめの数値となり小さめの値だったからこそ、フリッシュ=パイエルスの覚書は、当時はまだ手探り状態で可能性だけの兵器だった原子爆弾を、『より現実的』なものに受け取らせるものになり、真剣な検討を促すきっかけとなりました。

原爆について

1941年

  • 2月26日・・・プルトニウム発見の確証が、アメリカの化学物理学者グレン・シーボーグとアーサー・ワールによって得られました。
  • 5月17日・・・アメリカ実験物理学者でアーサー・コンプトンと全米科学アカデミーの報告が公表されます。その発表によると軍事使用可能な原子力生成物の開発に、有力な見通し発見されました。ヴァネヴァー・ブッシュは科学研究開発局を設立します。
  • 7月15日・・・MAUD委員会による核爆弾の設計そしてコストについて、最後の詳細なテクニカルレポートが発行されます。
  • 10月3日・・・MAUD委員会の公式報告書が、ヴァネヴァー・ブッシュに届くきます。
  • 10月9日・・・ヴァネヴァー・ブッシュが、MAUDが発見したことをルーズベルト大統領に伝えます。
  • 12月6日・・・ヴァネヴァー・ブッシュの下で会合が行われ、この場で重水素を発見して1934年ノーベル化学賞を受賞したハロルド・ユーリー博士はガス拡散法によるウラン濃縮の研究となり、一方でサイクロトンの開発と人口放射性元素の研究でノーベル物理学賞を受賞したアーネスト・ローレンス博士は、電磁濃縮法の調査に従事すると決定されました。
  • 12月7日・・・日本からの真珠湾攻撃によって、遂に日米で戦争が勃発します。そしてその4日後に、ナチスドイツが対アメリカへ宣戦布告がありました。
  • 12月18日・・・ アメリカでS-1計画の下で初の会合が行われ、核分裂兵器開発がここに決定となりました。

核のおそろしさ

ドキュメンタリー映画『カウントダウンZERO』と、核開発の歴史を考える