イギリスで専門の科学者たちによる委員会が設立

イギリスではフリッシュ=パイエルスの覚書が提出されたことで、科学者のヘンリー・ティザードは専門の科学者たちからなる「MAUD委員会」が設立されていますが、その前身になるのは「トムソン委員会」です。この委員会の議長には世界の最難関大学として有名なインペリアル・カレッジの教授で1937年に電子の波動性の証明でノーベル物理学賞を受賞した物理学者のジョージ・パジェット・トムソンがつきますが、最初の委員会のメンバーには、水素の核融合を発見したマーク・オリファントの他に、原子物理学の父としても著名な物理学者アーネスト・ラザフォードの弟子でジョン・コッククロフトが加わりました。ジョン・コッククロフトは、原子核に陽子を衝突させることで、核反応を始めて実現した物理学者です。

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トムソン委員会

そして中性子の発見者でフリッシュ、パイエルスと同様の洞察に基づいてウラン235の高速中性子分裂の実験を行っていたジェームズ・チャドウィックは助手フィリップ・ムーンをMAUD委員会に参加させました。そしてMAUD委員会には後に、実験物理学者で軍でオペレーションズ・リサーチにも携わり、護送船団の生還や賞賛についても貢献したパトリック・ブラケット博士も参加しました。

このトムソン委員会は、アメリカの「ウラン諮問委員会」とは異なっていて有能な科学者たちが「トムソン委員会」の中心を占めました。この委員会のことを、歴史家マーガレット・ガウィングが「史上最も、効率的な委員会のひとつ」というほど、短期間の間にひじょうに大きな活動することになります。

1940年4月10日に、王立協会で開かれた一番最初の非公式な会合では、フリッシュ=パイエルスの覚書の内容について、懐疑的に受け取られましたがそれから10日あまり後の4月24日の2度目の会議では、この会議に参加したジェームズ・チャドウィックが自分自身も、同様の結論に達していたと会議の場で発言したことで、トムソン委員会はフリッシュ=パイエルスの覚書が示した原爆の可能性の実験的検証を進めていくこといなりました。

この会議は極秘の内に進められていたため、覚書を出したオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスにさえ、ふたりがドイツからの亡命者ということもあったことから、しばらくの間トムソン委員会での会議の詳細は知らされませんでした。最初は「トムソン委員会」と呼ばれた委員会ですが、6月には「MAUD委員会」:モード委員会というようになりました。

ウラン濃縮の可能性

ウラン爆弾の可能性を評価する上で問題としてあったのは、臨界質量の正確な値と、それに必要なだけのウラン235を分離していくウラン濃縮の実現可能性でした。 イギリスへドイツから渡ってきていた化学者のフランシス・サイモンは、1939年春の時点でウラン濃縮のためのいろいろな方法を検討していました。そして検討していた中には、オットー・フリッシュが考えていたクルジウス管と呼ばれている長いガラス管を用いる単純な熱拡散法も含まれていましたが、長いガラス管を工業的な規模で実現するのはかなり難しいと見られていました。

1940年6月頃には、フランシス・サイモンはウラン濃縮には、ガス拡散法が最も有望だという結論を出しました。 何回も何回も実験が繰り返され、「MAUD委員会」のメンバーになっていたフランシス・サイモンは、こうして6月頃から何回も繰り返している実験から、同じ年のクリスマスの直前に、工業的規模でのウラン濃縮施設の具体的見積もりに関する報告書をまとめ上げました。

1940年当時のロンドンでは、ブリッツと呼ばれたドイツ軍からの大規模な空襲が続いていましたが、フランシス・サイモンはオックスフォードからロンドンへ自分で車を走らせて、この報告書を直接ジョージ・パジェット・トムソンに手渡しました。そしてフラシス・サイモンがまとめた報告書には、毎日1キログラムのウラン235を産出する工場が、だいたい500万ポンドの経費で可能だとしていました。

ウラン235を差出するための工場の見積もりができた一方で、ウランの臨界質量の値もかなり緻密になっていきました。1941年3月にアメリカで連鎖反応研究に携わっていたカーネギー研究所地磁気研究部のメール・チューヴが、ウラン235の高速中性子による分裂断面積の実測値をイギリスに伝えています。オットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスが、この新たな値から得られた爆弾に必要なウラン235の量は、だいたい 8キログラムです。そしてもし適当な反射的タンパー:覆いで周りを包めば4キログラム強になることが分かりました。

断面積測定を同じく行っていたジェームズ・チャドウィックも、この年の春には臨界質量が不可能ではない量に収まることになることに気づきます。そして気づいてからというもの、睡眠薬がなくてはならない日々を送るようになりました。

わずか、2年前に物理学上で「核分裂」という大発見があってから直ちに予測された原子爆弾という兵器ですが、たった1年前までは実質的に困難だと懐疑的に受け取られていたにもかかわらず、ジェームズ・チャドウィックが後になっていったように、核分裂を用いた原子爆弾という兵器が、今では「可能であるだけでなく、避けられないもの」になることが明らかになりました。そしてジェームズ・チャドウィックは続けて「遅かれ早かれこうしたアイデアは、新奇なものではなくなるだろう。 皆がそれ(原子爆弾)について、いずれは考えるようになって、そしてどこかの国がそれを実行に移すことになるだろう」と述べているように、核分裂を用いて巨大な破壊力を持つ原子をつかった兵器について語った通り、開発は近づいてきました。

原爆について

アメリカではどうだったのでしょう

イギリスでは著名な専門的な科学者たちを中心にしたMAUD委員会で、活発な議論やそれぞれの実験の報告などがなされていましたが、一方でアメリカでは原子の新しい兵器についてはまさに停滞しました。

1941年3月頃のことですが、ドイツからの空爆が続くイギリスをアメリカ国防研究委員会(略称:NDRC)の化学・爆発物部門主任でハーバード大学総長の化学者ジェームズ・コナント博士が訪れます。その当時のアメリカ政府は、原子爆弾へを開発することの関心は薄かったたことからく、NDRCでははアメリカの核エネルギー開発を独占的に担当していた「ウラン諮問委員会」を傘下に持っていましたが、それにも関わらずコナン博士はこのイギリスを訪れた1941年3月頃に、初めて原子爆弾の可能性を伝え聞くことになりました。

イギリス訪問の時にコナントに同行していた実験物理学者ケネス・ベインブリッジは、「MAUD 委員会」に出席します。この委員会へ参加したことで、イギリスの進展ぶりに大変驚き、「ウラン諮問委員会」のライマン・ブリッグズ議長に、すぐにアメリカからイギリスへ人を派遣するように要請しました。このことでウラン諮問委員会のブリッグズ議長は、アメリカ国防研究委員会(NDRC)議長のヴァネヴァー・ブッシュとともに、アメリカ科学アカデミー (NAS) の元に「核エネルギーに関する審査委員会」を設けます。そしてこの議長には、シカゴ大学の著名な実験物理学者でノーベル物理学を受賞しているアーサー・コンプトン博士を据えることになりまました。

そして「NAS 審査委員会」は、5月17日に最初の報告を提出しています。最初の報告では、核技術の軍事利用に前向きな見通しを示してはいますが、原爆に関して「1945年以前には期待できない」としただけになっていて、イギリスが得た進展に関することには何も触れられていませんでした。

しかしこれを受けてNDRC議長のヴァネヴァー・ブッシュは、新たに科学研究開発局 (OSRD) 設立を提案します。そしてその長官に就任して、「ウラン諮問委員会」も科学研究開発局(OSRD)の 、S-1ウラン委員会つまり「(S-1 Uranium Committee」 となりました。この S-1 は 科学研究開発局(OSRD)の 第1課 (section one) を意味していて、科学研究開発局(OSRD)の最重要任務は核エネルギー開発となりましたが、ブッシュ議長はイギリスの報告中のウラン235を、ウラン238と混同したりしていたことから、「MAUD委員会」の得た成果に関して、まだあまり理解をしていなかったといえるでしょう。ブッシュからアメリカ国防研究委員会(NDRC)を引き継いだコナントも、1~2年以内に成果の出ないものにエネルギーを割くべきでないとしていたため、イギリス訪問して「MAUD 委員会」に出席したことでイギリスの原子爆弾の開発について活発な議論がされていることに驚いた実験物理学者ベインブリッジの訴えは、アメリカの官僚主義の中に飲み込まれることになりました。

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