史上初の原子炉と開発に携わった科学者たち

いよいよ核分裂をさせて巨大な破壊力を持つ兵器の開発が始まりました。ルーズベルト大統領は1942年10月にアメリカ国防研究委員会議長のヴァネヴァー・ブッシュと、ヘンリー・A・ウォレス副大統領とのミーティングで、核兵器開発プロジェクトを承認しました。そしてルーズベルト大統領は核兵器開発プロジェクトの管轄を、海軍ではなく大規模なプラント建設に慣れている陸軍に行わせました。それだけではなく、核兵器を開発するにあたりイギリスとの協力体制についても同意して、10月11日にはイギリスのウィンストン・チャーチル首相宛に書簡を送りました。

1942年に開発が始動

1942年の初夏7月から9月の時に、カリフォルニア大学バークレー校で夏の会議が行われました。この会議には、ドイツからの移民の子としてニューヨークで生まれたユダヤ系アメリカ人物理学者ロバート・オッペンハイマー、そしてユダヤ系で後に水爆の父と知られるエドワード・テラーです。この会議で原爆の設計が議論されますが、後に水爆の父と言われるだけあり、エドワード・テラーは強硬に水素爆弾の可能性を主張して、オッペン・ハイマーは卓越したリーダーシップを発揮して、原子爆弾の開発についての議論が行われました。

そして、核兵器開発プロジェクトの実施するにあたり「陸軍マンハッタン工兵管区」と名称が付けられた組織が行うことになりました。この責任者の任に付いたのは、アメリカ陸軍のレズリー・リチャード・グローヴス准将が1942年9月に着任しました。

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1942年

  • 8月 ・・・アメリカ陸軍工兵司令部による「マンハッタン工兵管区」(いわゆるマンハッタン計画)が創設されました。
  • 9月13日・・・ S-1計画の上級委員会によって、高速中性子の研究のための中央研究所を建設するべきだと決定となりました。そしてコードネームはプロジェクトYとなりました。
  • 9月17日・・・ レズリー・リチャード・グローヴス陸軍大佐がMEDの司令官に任命され、任命の6日後に准将に昇進しました。
  • 9月24日・・・ テネシー訪問後、グローブス准将は210 km²の土地を購入します。それが後に、オークリッジのサイトXという研究所となります。
  • 9月26日・・・ マンハッタン計画は、War Production Board:ワー・プロダクション・ボードによって、最高の戦時優先等級を与えられました。
  • 10月15日・・・ グローブス准将とオッペンハイマー博士を【"サイトY"研究所】の、科学研究の調整役へと任命を受けることになりました。
  • 11月16日・・・ グローブズ准将とオッペンハイマー博士は、ニューメキシコのロスアラモスを訪問します。そしてロスアラモスを"サイトY"の研究所として設置する場所として決定します。
  • 12月2日・・・イタリアからアメリカへ亡命した実験家でもあり理論家でもありその両方で世界最高レベルの業績を誇り、放射性元素の発見で1938年ノーベル賞を受賞しているエンリコ・フェルミ博士によって設計されたシカゴ大学の原子炉シカゴ・パイル1号が、歴史上初めて臨界に達することになりました。

オークリッジとロスアラモス

1942年8月にマンハッタン計画決定した翌日すぐに土地調査のために、グローヴス准将とジョージ・マーシャル大佐はテネシー州にむかいます。そしてテネシー州東部にあるOak Ridge:オークリッジの土地を取得していますが、この時に取得した土地の面積は23,000ヘクタールです。そして、アメリカ陸軍は、原爆を製造するために必要なウラン精製工場を建設します。そして後に追加で1,200ヘクタールも取得しています。

オークリッジに最初の工場が完成すると、全米から労働者が集められてオークリッジの人口は増大して、最大の時には75,000名となりました。そしてオークリッジの施設にはサイトXの暗号名が付けられて、その施設は後にオークリッジ国立研究所となっています。

ロスアラモスに研究所を置くことを提案したのは、マンハッタン計画に参加する科学者たちのリーダーとして選ばれた、物理学者のロバート・オッペンハイマー博士です。オッペンハイマー博士の提案で、ニューメキシコ州ロスアラモスが起これることが1942年11月に決定していますが、この施設はサイトYと暗号名が付けられて、その施設は後にロスアラモス国立研究所になっています。

ロスアラモスで研究所が作られ、その研究所の所長に付いたのはオッペンハイマー博士ですが、この研究所には著名な科学者が集められただけではなく、若手の研究者や名門校のハーバード大学やカリフォルニア大学の学生も集められたほか、その当時の計算はコンピューターが実用化されていなかったことから、計算だけをするために数学に特に優秀な高校生も集められました。

ロスアラモスに集まった著名な学者

  • ニールス・ボーア・・・デンマークの理論物理学者で、量子論の育ての親といわれ1922年ノーベル物理学賞受賞。母親がユダヤ人のためイギリス経由で渡米。
  • エンリコ・フェルミ・・・イタリア出身の物理学者で、統計力学・核物理学・量子力学で業績を残し1938年放射性元素の発見でノーベル物理学賞受賞。妻がユダヤ人のため、イタリアファシスト政権の時に、ノーベル賞受賞式のあとそのままアメリカに亡命。
  • エミリオ・セグレ・・・イタリア生まれの物理学者で、ムッソリーニ政権化下でユダヤ人のためアメリカへ亡命。カルフォルニア大学でアスタチンとプルトニウム239の発見に貢献。1959年反陽子の発見でノーベル物理学賞受賞。
  • ハンス・ベーテ・・ユダヤ系ドイツ出身の物理学者で、1933年にイギリスへ逃れて1935年にアメリカコーネル大学で教授となり、オッペンハイマーの誘いで加わる。1967年に原子核反応理論への貢献、特に星の内部におけるエネルギー生成に関する発見でノーベル物理学賞受賞。
  • ジョン・フォン・ノイマン・・・ハンガリー出身の数学者で、両親ともにユダヤ系のドイツ人。1930年代に一家でアメリカへ移住。プリンストン高等研究所で数学の教師を務めていた人物で、爆縮レンズの計算を担当。
  • スタニスワフ・ウラム・・・ポーランド出身の数学者で、ジョン・フォン・ノイマンに招かれ渡米。第二次世界大戦全やにポーランドを脱出して、マンハッタン計画に参加。
  • ジョン・ホイーラー・・・アメリカの物理学者核分裂メカニズムをニールス・ボーアと共同でかき揚げ、水爆計画推進に貢献。
  • アーサー・コンプトン・・・アメリカの実験物理学者で、1927年にコンプトン効果の発見でノーベル物理学賞受賞。
  • レオ・シラード・・・ハンガリー出身のユダヤ系分子生物学者・物理学者、ルーズベルト大統領へ進言して原子爆弾開発のきっかけを作った人物。
  • グレン・シーボーグ・・・アメリカの化学者・物理学者で、超ウラン元素の合成と研究の功績で1951年ノーベル化学賞受賞。プルトニウムの分離に関わる。
  • リチャード・P・ファインマン・・・プリストン大学の大学院生のときに、ジョン・ホイラー教授の助手となり、プリンストン大学内でマンハッタン計画して最終的にロスアラモスへ参加。1965年量子電磁力学の発展に貢献したことでノーベル物理学賞を受賞。

原爆について

史上初の原子炉を完成

エンリコ・フェルミ博士が史上初の原子炉を完成させていますが、1938年にノーベル賞授賞式のためイタリアからストックホルムへ渡りノーベル賞を受賞したその足で、そのままアメリカへ亡命しました。雨イrかで、核分裂反応の研究に従事して、1942年にシカゴ大学で世界最初となる原子炉の原子炉「シカゴ・パイル1号」を完成させていますが、この原子炉はシカゴ大学フットボール競技場の観客席下にあったスカッシュ・コートに極秘裏に建設されたものです。

1942年12月2日8時30分から実験が始まりました。そして12月2日シカゴ時間で15時25分に、科学者の一人ジョージ・ウェイルの操作によって制御棒が引き抜かれて、原子炉は臨界に達しました。原子核分裂の連鎖反応の制御に、この時世界で初めて成功した瞬間となりました。

この原子炉はシカゴ・パイル1号:CP-1は、原子爆弾の材料となるプルトニウムを生産するために用いられることになりました。エンリコ・フェルミ博士はアメリカ合衆国の原子爆弾開発プロジェクト「マンハッタン計画」でも中心的な役割を演じることになり、1944年にロスアラモス国立研究所のアドバイザーになりました。

CP-1の成果を元につくられた原子炉で生成したプルトニウムは、1945年8月9日に長崎に投下された原爆に利用されています。そしてこの原爆によって数万人が死亡しました。

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